日本をまもる会 掲示板

この掲示板は、基本的には思想信条を問わず自由闊達な意見交換の場にしたいと考えております。ただし、過激な言葉による誹謗中傷などのコメントについては、当会ならびに当掲示板の品性を貶めるものとみなし、管理者の判断において削除させていただきます。品格と教養の高い日本人としての矜持を以て節度ある書き込みをお願い申し上げます。



カテゴリ:[ その他 ] キーワード: 日本 政治 愛国


新着順:21/584


[767] Re: いつもの人です

投稿者: 伊那 投稿日:2019年11月28日(木)17時02分11秒   通報   返信・引用   編集済 > No.766[元記事へ]

針原様

>幅広くさまざまな分野に精通しておられることに、つくづく感服いたします。

そこまでのものでもありません
歴史や文化は過去を振り返る程度の物という認識ですが、それでも政治思想を語るのに歴史の重みは無視できませんから

>あのめんどくさいアホには絶対に関わらないほうがいいですよ。

そうですね。さすがに特殊な世界を築いている方と関わり合いになるのは。「宿禰」とか言ってますし(苦笑)

火の本乙女様

>天皇という位はそんな軽いものなんですか?

軽いと思いますよ

>それに南朝が朝廷からの支持も少なかったってただの願望ですよね?

『明徳の和約』時、『後小松天皇』は『後亀山天皇』との会談を拒絶してます
さらに『安徳天皇』崩御の先例にならって、神器を接収するという非礼も行われています(『南山御出次第』『御神楽雑記』)

後亀山天皇に太上天皇の尊号を贈るときも、北朝を中心とする伝統公家は強い反発を示して
最終的に『足利 義満』の強い意向、つまり足利のお陰で南朝が体面を保ててます(『荒暦』)

さらに主流派の心情を現すものとしてこんな物もあります

義良親王とは、陸奥太守、南方に於いて君主を称し、後村上天皇を号する云々
寛成親王とは、法名覚理、南方に於いて自立し、長慶院を号する
熙成王とは、法名金剛心、吉野より降りし後、太上天皇尊号を蒙り、後亀山院を号する

以上、『後小松天皇』が「洞院 満季」に命じて編纂させた『本朝皇胤紹運録』の一説です

>後村上天皇様に対してそんな事を本当に言ってたんですか?

『後土御門天皇』が「壬生 晴富」に命じて著述した『続神皇正統記』

後村上天皇、諱は義良、第九十六代第五十世云々、これは南方の偽の主の御事にて、当朝日嗣には加奉らず

これで納得できましたか?

>朝廷は陛下のための組織のはずで、一枚岩にならないといけないはずでしょ。

残念ながらそれは幻想です。明治の元老「西園寺 公望公爵」はご存知ですよね? 清華家の一員です
彼の先祖である「西園寺 公宗」は「北条 時興」と結託して『後醍醐天皇様』を暗殺しようとしてました
すごいですね!! 公家が「天皇殺し」の偉業をなそうとしたんですよ?(『太平記』巻十三 北山殿御謀反事)

さらに南北朝が分裂している時に、その北朝の中でも分裂していました
所謂『伏見宮永世親王家』設立の原因ともなった出来事です

観応二年(1351年)に「足利 尊氏」は弟と南朝を切り離すために南朝と和睦したため、南朝が統一しました
それに伴い南朝と足利の力により『崇光天皇』や皇太子(皇太弟)『直仁親王』は廃位されました
弟の「足利 直義」が死去して兄が勝利して内乱を終えた後
『北畠 親房公』を総大将とした軍勢が攻め込み、先方の『楠木 正儀公』が京を攻め落としました

『北畠 親房公』は「三種の神器」を持ち去り
『光厳天皇』・『光明天皇』・『崇光天皇』(退位した直後)の三上皇と皇太子『直仁親王』を連れ去りました
「三種の神器」も無く、正当な皇位継承者も居ない状態で窮地に立った「足利 尊氏」は
「三種の神器」も無く、即位の礼も行わない緊急措置で『崇光天皇』・『直仁親王』の弟であり
皇位継承外だった『後光厳天皇』を即位させました
そして後に、三上皇と皇太子は京に帰ってきました。ここまでは良いですね?

ここからが修羅場の始まりです。『後光厳流』は正当性に欠けていて、皇位を元に戻すよう訴えられていました
ところが『後光厳天皇』はこれを無視して、息子の『後円融天皇』に譲位してしまいます
騒動が大きくなってきた事から、嫡流は『崇光天皇』であるとして皇子の『伏見宮栄仁親王』に
持明院統の所領を相続する事をしぶしぶ認めます。ところが『後小松天皇』は所領を没収したり嫌がらせを行います

そんな『後小松天皇』も跡継ぎに恵まれず、さらに南朝との『明徳の和約』で地位が脅かされるにいたって
ようやく『伏見宮貞成親王』(崇光天皇孫)の息子『後花園天皇』を皇太子にする事を容認する事になります
だが『後小松天皇』は「猶子という事は自分の子であるから、父に尊号を贈るのはやめろ」と遺言しています
非常にみっともない態度ですね

ところが『後花園天皇』はなんと、「伏見宮は特別な宮である」として文安元年(1444年)に
同母弟の『伏見宮貞常親王』に親王宣下をおこない
文安四年(1447年)には遺言に反して実父に『後崇光院』の尊号を贈りました
解かります?遺言に反してただ贈っただけでなく、わざわざ『後崇光院』と『崇光天皇』を想い起させる名称にしてます

ちなみに、この事についてどのように朝廷は思っていたか?

凡そ帝位に非ざる尊号、後高倉院、後亀山院、両度也。今度の儀、後高倉院より浅いが、後亀山院よりは深いか

以上、最後まで尊号を贈る事に反対していた「万里小路 時房」の『建内記』です
つまり後高倉院よりは道理は無いが、後亀山院の例よりは余程マシだ、というなんともな評価です

どうです? 朝廷って一致団結している組織でしたか?
そもそも天皇と皇室の御意思は別物ですし、朝廷という組織体ともその意思は別物ですよ


新着順:21/584


お知らせ · よくある質問(FAQ) · お問合せ窓口 · teacup.レンタル掲示板

© GMO Media, Inc.